福岡高等裁判所 平成8年(ネ)183号 判決 1998年2月27日
控訴人
桂昌寺
右代表者代表役員
清水泰雄
右訴訟代理人弁護士
多加喜悦男
同
安永一郎
被控訴人
北九州市
右代表者市長
末吉興一
右訴訟代理人弁護士
福田玄祥
主文
本件控訴を棄却する。
訴訟費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一 申立て
控訴人は、「原判決を取り消す。被控訴人は、控訴人に対し、六一三五万九六〇〇円及びこれに対する昭和六三年六月二三日(本訴状送達日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員(民法所定の遅延損害金)を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、主文同旨の判決を求めた。
第二 事案の概要
本件は、控訴人が、その境内地が何らの権原なく市道の道路敷及びその法面として使用されていると主張して、被控訴人に対し、不当利得の返還を求めた事案である。
一 基礎的事実
1 控訴人は、大正三年ころ、控訴人代表者清水泰雄の父清水文雄が、現在の福岡法務局八幡出張所の敷地に開設した、永平寺と総持寺を本山とする曹洞宗の寺院であって、現在、肩書地を主たる事務所とし、包括団体を宗教法人曹洞宗とする宗教法人である。(原審における控訴人代表者(第一回)、本件記録)
2 控訴人は、右の開設地から寺院を移転するため、大正七年四月八日に、北九州市八幡区末広町(所在地の表示は昭和四六年当時のものである。)九七三番二(82.64平方メートル。以下、末広町に所在する土地を地番で表示する。)、九七五番二(2739.19平方メートル)、九七八番(601.65平方メートル)、九七九番(198.34平方メートル)及び九八二番(150.84平方メートル)の所有権を取得したのを初め、昭和二年二月一日に四一一六番一八(436.36平方メートル)の所有権を、昭和三年一一月二日に四一一六番一(328.26平方メートル)及び四一一六番四(98.21平方メートル)の所有権を、昭和七年一一月九日に九七三番三(53.19平方メートル)、四一一四番七(51.23平方メートル)及び四一一四番一四(6.61平方メートル)の所有権を、昭和九年七月一六日に四一一六番二五(109.09平方メートル)の所有権をそれぞれ取得した(右各土地の位置関係は、概ね、別紙図面(1)(字の異なる二枚の字図を接合したもの)のとおりである(後記4のとおり、当時は九七五番九と同番一四も同番二に含まれていた。)。以下、右各土地を総称するときは「本件境内地」という。なお、本件境内地は、昭和五一年八月五日に、その大部分が四一一六番一に合筆され、別紙図面(2)(別紙図面(1)と同様の接合図)の形状となった。)。そして、昭和の初めころ、四一一六番一八及び四一一六番一に本堂と庫裏が建築されて、控訴人の寺院はここに移転した(別紙図面(3)参照)。(甲一ないし三、四の1、2、五ないし一七、一〇八ないし一一〇、原審における控訴人代表者(第一回))
3 山の手線道路は、起点を旧国鉄枝光駅前の福岡県道とし、終点を旧八幡市黒崎の国道二〇〇号とする、延長約七五〇〇メートル、幅員約7.5メートルの山腹を縫って走る道路であって、昭和五年一一月に着工後、昭和八年三月三一日に完成し、同年六月八日の竣工式のころ、旧八幡市道山の手線第一号ないし第四号として供用の開始がなされた。右市道は、昭和一一年二月二七日に旧八幡市道山の手線として路線の変更がなされ、昭和二六年八月一日に道路法(昭和二七年法律第一八〇号。以下「新道路法」という。)施行を控え改めて供用の開始がなされ、昭和五三年五月一二日に路線名が北九州市道(昭和三八年に旧八幡市を含む五市が合併した。)枝光幸神一号線に変更された。さらに、昭和六一年二月二六日、路線の見直しに伴い、本件境内地付近の右市道は、北九州市道大蔵大谷一号線として路線の変更がなされた(以下、本件境内地付近の右市道を「本件市道」という。)。(甲一九の3、乙三、一二、一三、一四の1、2、一五、一六の1ないし4、一七、一八、三七、原審証人千々和廣)
4 本件境内地のうち、別紙図面(1)の緑色で表示する部分は南側から北側に傾斜する谷あいの斜面であったところ、昭和七年四月ころ、ここに盛り土がなされ、本件境内地の南端付近を約六〇メートルの長さで横切って、別紙図面(1)ないし(4)の赤色で表示する部分に本件市道が建設された(別紙図面(5)のA(面積487.73平方メートル)が本件境内地内の道路敷であって、九七五番の二の一部と考えられる。以下、右敷地を「本件道路敷」という。なお、原審証人千々和廣は、九七五番二が昭和七年八月二五日に同番二と同番九に分筆されたことから(その後、右の九七五番九は昭和一一年七月八日に同番九と同番一四に分筆され、右の同番九は昭和四四年五月一日に同番九、同番三四及び同番三五に分筆された。乙八の1、2、二九の3)、本件道路敷が九七五番九にあたると供述するが、字図上(別紙図面(1)、(2)参照)、九七五番九は、本件市道の敷地で本件境内地の東西にそれぞれ隣接する九八一番三及び九七五番七より、南側に大きくずれていることに照らし、右供述部分は採用できない。)。本件道路敷に本件市道が建設された結果、本件道路敷北方の前記斜面は本件市道の法面となった(以下、右法面を「本件法敷」という。)。昭和一一年以降、本件道路敷や本件法敷は数回にわたって崩落し、被控訴人は、本件道路敷に接する本件法敷部分(別紙図面(5)のB(面積228.24平方メートル)。以下、本件法敷のうち右部分だけを指すときは「本件法敷B」という。なお、同図面(5)のC(面積3137.76平方メートル)は本件法敷のうち本件法敷Bを除いた部分である。)と、本件法敷の法下にそれぞれ擁壁を築いた(別紙図面(4)の黄色表示部分が右の各擁壁である。)。(甲一三ないし一七、一八の1ないし10、一九の3、四一の1ないし10、七〇、八九の1、九〇ないし九四、一〇八ないし一一〇、一二三の1、2、一三二、原審証人千々和廣、原審における控訴人代表者(第一、二回))
5 新道路法施行前の道路法(大正八年法律第五八号。以下「旧道路法」という。)では、同法上の府県道、市道及び町村道は国の営造物と観念され、これらの道路の管理事務は国の機関委任事務として府県道は都道府県知事が、市道、町村道はそれぞれ市長、町村長が国の機関として管理していた。したがって、道路の新設又は改築のために取得した敷地等は、国に帰属することになっていた。しかし、新道路法では、都道府県道及び市長村道はそれぞれ地方公共団体の営造物とするという観念に改められ、地方公共団体が道路管理者として管理することになったため、旧道路法上の府県道、市道又は町村道の用に供されていた国有に属する土地を、地方公共団体の営造物になった都道府県道又は市町村道の用に供する場合、営造物の主体たる地方公共団体が敷地についての権原を確保することが必要となった。そこで、道路法施行法(昭和二七年法律第一八一号)五条は、国有財産法二二条の特例として、何らの手続を要することなく、右の府県道、市道又は町村道の敷地は国から地方公共団体に無償で貸し付けられたものとみなした。(乙二)
第二 争点
一 本件道路敷の上地(贈与、以下、同じ)
(被控訴人の主張)
1 国は、昭和五年ころ、控訴人から、本件道路敷の上地を受けた。
2 仮に寺院財産の譲渡に檀徒総代の同意と教部省の許可が必要であったとしても、以下のとおり、右上地にはこれらがなされた。
(一) 本件道路敷は控訴人の先代住職清水文雄によって国に上地されたが、これを敷地の一部とした本件市道は、地元住民の要望に沿った形で建設され、その後半世紀以上にわたって市道として利用されてきた経緯に照らすと、檀徒総代は、本件道路敷の上地について、事前又は事後に、明示又は黙示の同意を与えていたものともいえる。
(二) 本件道路敷は国に上地されたのであるから、国が上地を受けた時点で、本件道路敷の上地について、教部省の許可があったものとみなすことができる。
3 仮に右上地について檀徒総代の同意と教部省の許可がなされなかったとしても、その原因は控訴人の先代住職が右手続を懈怠したことにあるから、控訴人がこれらがないことを理由に右上地の無効を主張することは、信義則上許されない。
(控訴人の主張)
1 控訴人は国に本件道路敷を上地していない。
2 仮に上地があったとしても、右上地は無効である。すなわち、控訴人は寺院であるから、その財産を譲渡する場合には、明治六年太政官布告第二四九号、明治九年教部省達第三号、明治一〇年太政官布告第四三号、明治一二年内務省達乙第三九号により、檀徒総代の同意と教部省の許可が必要であり、これに反した財産譲渡は無効であった。ところが、右上地にはこれらがなされていない。
二 本件道路敷の時効取得
(被控訴人の主張)
仮に本件道路敷の上地がなかったとしても、国は本件道路敷を時効取得したから、控訴人は右時効を援用する。すなわち、本件道路敷は、控訴人先代住職の承諾のもとに、本件道路の一部とされ、遅くとも、本件道路の竣工式の翌日である昭和八年六月九日には、市道としての利用が開始され、現在まで利用されてきた。したがって、右利用期間中、本件道路敷は国が旧八幡市を占有代理人として占有してきたものである。しかも、本件道路の建設当時、その敷地が上地されることは一般的であったこと、控訴人先代住職の承諾を得た上で工事が行われたことに照らすと、国が上地によって本件道路敷の所有権を取得したと信じ、かつ、そのように信じたことに過失はなかった。したがって、国は、右占有開始日から一〇年を経過した昭和一八年六月九日をもって、本件道路敷を時効取得した。仮に国に過失があったとしても、右占有開始日から二〇年を経過した昭和二八年六月九日をもって、本件道路敷を時効取得した。
(控訴人の主張)
本件道路敷については、上地も、檀徒総代の同意と教部省の許可もいずれもなかったのであるから、国には、本件市道の建設工事に着工する意思があっただけで、これを所有する意思はなかった。
三 本件法敷の占有
(控訴人の主張)
被控訴人は、本件道路を維持管理するため、本件法敷の上部に頑丈な擁壁を築き、その下部にも巨大な擁壁を設置し、さらに、法面には水路を設置して、本件法敷の全体を管理下に置いており、控訴人が右土地を利用することは全く不可能である。しかも、本件法敷には旧八幡市当時から膨大な量の盛り土がなされ、従前の土地の原型すら残っていない。したがって、被控訴人は本件法敷を占有している。
(被控訴人の主張)
本件市道建設のころ、旧八幡市と控訴人との間で、本件法敷について、①市は、常に維持管理をし、災害が発生した場合、直ちに復旧措置をとる、②控訴人は、市の承認を得ることなく、地形の変更や所有権の移転をしない、旨の合意が成立した。被控訴人は、右合意に従い、本件法敷を維持管理しているだけで、これを占有するものではない。
四 本件法敷の占有権原
(被控訴人の主張)
1 仮に被控訴人が本件法敷を占有しているとしても、被控訴人は、本件法敷に関する前記合意に基づき、本件法敷について、擁壁等の構築物を設置することを含め、その維持管理上必要な範囲で占有使用する権原を有している。
2 仮に右合意に檀徒総代の同意と教部省の許可が必要であったとしても、前記一の(被控訴人の主張)2及び3のとおり、これらがなされたといえるし、これらがなされなかったとしても、控訴人がこれを理由に右合意の無効を主張することは、信義則上許されない。
(控訴人の主張)
被控訴人主張の前記1の合意はなされていない。
五 被控訴人の利得額
(控訴人の主張)
被控訴人は、本件道路敷及び本件法敷(合計面積3853.29平方メートル)を占有することにより、左記合計六一三五万九六〇〇円の賃料相当額を不当に利得し、控訴人に同額の損失を与えた。
① 昭和五三年七月一日から昭和五六年三月末日まで
一二一一万一〇〇〇円
一か月の賃料相当額三六万七〇〇〇円(一平方メートルの価格一万九〇五二円の六パーセントを、一平方メートルあたりの一年間の賃料相当額として計算(ただし、一〇〇円未満切り捨て。以下、同じ))の三三か月分
② 昭和五六年四月一日から昭和五九年三月末日まで
一七九六万七六〇〇円
一か月の賃料相当額四九万九一〇〇円(一平方メートルの価格二万五九一〇円の六パーセントを、一平方メートルあたりの一年間の賃料相当額として計算)の三六か月分
③ 昭和五九年四月一日から昭和六二年三月末日まで
二一四七万四〇〇〇円
一か月の賃料相当額五九万六五〇〇円(一平方メートルの価格三万〇九六二円の六パーセントを、一平方メートルあたりの一年間の賃料相当額として計算)の三六か月分
④ 昭和六二年四月一日から昭和六三年六月末日まで
九八〇万七〇〇〇円
一か月の賃料相当額六五万三八〇〇円(一平方メートルの価格三万三九三五円の六パーセントを、一平方メートルあたりの一年間の賃料相当額として計算)の一五か月分
第三 争点に対する判断
一 証拠(甲一八の1ないし10、一九の1ないし4、二二ないし二六、二八ないし三一、四一の1ないし10、五〇、五一、五五、五八、五九、六一、六四ないし六七、六九、七〇、七五ないし八四、八九の1、九〇ないし九四、一二四の1ないし3、一三〇、一四二の1ないし16、一四五の1ないし3、乙一、四の1、2、五の1ないし5、12、13、16、一〇の1、2、二四の1、2、二五の1ないし12、三七、四一の1ないし3、原審証人千々和廣、原審における控訴人代表者(第一、二回))によれば、以下の事実が認められる。
1 本件市道敷地の所有権取得
本件市道の建設工事は、その敷地を国(内務省)が地主から上地を受けた上で、進められていった。現に、本件市道の敷地である九七五番一〇、同番一一、九八一番三、九九四番三、一〇〇七番一一及び一〇〇三番三については、本件市道建設のころに、内務省が上地を登記原因として所有権移転登記を経由しており(そのうち、九九四番と三、一〇〇三番三、九七五番一一については、地主から提出のあった「上地願」が現存している。)、また、同じく右敷地である九七五番七については、登記名義は内務省となっていないし「上地願」も現存しないが、地主から提出された「免税願」が現存し、そこには上地したことが記載されている。そして、九七五番七、同番一〇、同番一一は本件道路敷の東側に、九八一番三、九九四番三、一〇〇七番一一はその西側にそれぞれ順次隣接している。
2 本件道路敷と本件法敷の成立ち
本件市道の建設前、控訴人の先代住職清水文雄は、旧八幡市からの要請を受け入れ、本件道路敷に本件市道を建設することを承諾した。ところが、本件道路敷及び本件法敷は、当時、谷あいの斜面であって、通常でも山からの水が流入し、大雨のときには相当の流量になっていたため、本件市道の建設によって右の斜面に盛り土がなされた後には、これが崩落する危険も予想された。そこで、控訴人の先代住職清水文雄は、右承諾に際して、旧八幡市に対し、災害時の復旧等を約束するよう申し入れた。旧八幡市は、これを承諾し、本件法敷について、「道路法敷管理地の指定」をした(これ以後、控訴人が本件法敷を境内地その他の用途に使用することはなかった。)。これは、地主との合意に基づくもので、法令に根拠を有する行政上の処分ではなかったが、その内容は、①管理地は、市が常に維持管理し、災害時には直ちにその復旧の措置をとる、②地主は、市の承認を得ることなく、勝手に地形を変えたり、所有権の移転を行うことはできない、というものであった。そして、「道路法敷管理地の指定」は、本件市道について、本件法敷のほか、四か所についてもなされている。
(右の事実は、主として、後記4・(一)の請願書に添付された藤野六郎(本件市道建設に携わった旧八幡市の職員)作成の①昭和四四年七月二九日付陳述書(甲一九の3)によって認定するものであるが、その後に同人が作成した、②昭和四九年六月一七日付陳述書(甲二一)には「①の陳述書に住職が不本意ながら承諾したとあるのは、上地問題には一切関係なく工事施行のみに限って承諾を得たということである。」と、③同年九月五日付陳述書(甲二〇)には「本件市道完成後、先代住職は、旧八幡市の市長や土木課長に対して、本件道路敷と本件法敷を正当価格で買い上げること、これができない場合には代替地を提供すること、いずれも困難な場合には賃貸借契約を結んで適正な借地料を支払うことを要求した。」とそれぞれ記載されている。しかしながら、本件道路敷の占有権原には触れずに工事施行のみを承諾したというのは、いかにも奇異といわざるを得ない上、控訴人の檀徒であった藤野六郎は①の陳述書を作成したことで、他の檀信徒から強い反発を受けていたところ、②及び③の各陳述書は、控訴人の住職や檀信徒から強い要請を受けて、後記4・(八)の調停申立ての資料として作成されたこと(甲一五九、当審証人鐘ヶ江信敏)に照らすと、右各陳述書がはたして真実を記載したものか疑わしく、直ちに、これを採用することはできない。また、当審証人鐘ヶ江信敏は、昭和二二年に開かれた総代会において、藤野六郎が右各陳述書と同じことを述べたと供述し、甲一五九(控訴人代表者作成の陳述書)にもこれに沿う記載がある。しかしながら、これを裏付ける証拠はない上、右の総代会が開かれたとされる後に、藤野六郎が①の陳述書を作成していることに照らしても、右の供述部分及び記載部分はいずれも採用できない。)
3 本件市道建設後の状況
昭和一一年ころ、大雨によって本件法敷が崩落し、控訴人の本堂にも被害を及ぼした。そこで、控訴人の先代住職清水文雄は旧八幡市に対して災害復旧を申し入れ、旧八幡市は、これに応じて、本件法敷の法面に杭打ちや排水溝の設置を行い、さらに、その法下の石積を強固なものに補修した。その後も本件法敷が崩落することがあり、旧八幡市は、本件法敷の法下の石積を新たに構築するなどした。なお、清水文雄は昭和二二年五月七日に死亡し、同年一二月二八日、その子である清水泰雄が控訴人の住職に就任した。
4 昭和四四年ころから本訴提起前までの経過
(一) 控訴人は、昭和四四年七月付書面で、北九州市議会議長に対し、本件法敷が「道路法敷管理地の指定」を受けていることを前提に、その保全管理が放置されていることを理由として、管理土地の代替地の無償払下げと、寺院の移転措置一切を求めて、請願し(右請願は昭和四八年二月九日に審議未了となった。)、一方では、被控訴人に対し、本件法敷の安全性の調査を求めていた。
(二) 昭和四五年六月中旬ころ、大雨によって本件道路敷に亀裂が生じ、本件法敷Bが陥没するなどした。そこで、控訴人は、被控訴人に対し、同月二〇日付書面で、復旧工事と損害に対する補償を求め、被控訴人は、同月二三日付書面で、本件布道の復旧工事及び控訴人寺院への危険防止工事(荷重軽減のため表土除去)を施工することを通知するとともに、その協力を求めた。さらに、被控訴人は、控訴人に対し、同年七月四日付書面で、本件法敷を買い受けて、法留のための擁壁法面保護排水等を施工するつもりであるとし、右工事に協力するよう求めた。
(三) 昭和四五年七月一〇日、控訴人と被控訴人との間で、右工事に関する覚書が取り交わされた。その内容は概ね次のとおりである。①被控訴人は本件法敷を買い受ける(売買価格は協議の上定める。)②法面頂部施工(本件道路敷と本件法敷Bにあたるものと考えられる。以下「第一期工事」という。)は代金支払前に工事着手することに異議はないが、法面下部の法留擁壁工事等(本件法敷から本件法敷Bを除いた部分にあたるものと考えられる。以下「第二期工事」という。)の工事着手前に登記を完了し代金を支払う。③工事の施工は、国庫補助認可申請事務等(調査、設計及び手続事務)のため昭和四五年度及び昭和四六年度の二年度とするが、できる限り早期に着手完了する。④第二期工事については、その施工前に、工種内容及び施工の範囲方法を協議する。④工事施工期間及び完了後に起きた被控訴人の責にかかる災害を生じた場合は、協議の上すみやかに善処する。
(四) 第一期工事は、昭和四五年六月ころ着工され、国の指示による土質や地下水位等の調査のため一時中断したこともあったが、昭和四六年三月ころ終了した。右工事によって、本件道路敷が修復され、本件法敷Bに擁壁が築かれるなどした。その間、前記売買価格について、控訴人と被控訴人との間で協議がなされたが、合意に至らなかった。
(五) 被控訴人は、昭和四六年三月一七日付書面で、控訴人に対し、第二期工事に着手したい旨を通知した。これに対し、控訴人は、同月二三日付書面で、工事事前打ち合わせの開催と、被控訴人が昭和四五年一一月二六付書面で約束していた過去の被害弁償の履行を求めた。その後、被控訴人は、第二期工事着工への協力を求めて、新しい覚書案を添付した昭和四六年三月三〇日付と同年四月九日付の各書面を、控訴人に送付したが、控訴人は、右の被害弁償等を履行した後に第二期工事に着手するよう求めた。なお、右の同年三月三〇日付書面に添付された覚書案には、本件道路敷について無償上地する旨の条項があったが、右送付後に控訴人が被控訴人に送付した書面には、右条項について何ら触れるところはなかった。
(六) 昭和四六年一〇月一一日、控訴人と被控訴人との間で、第二期工事に関する覚書が取り交わされた。その内容は概ね次のとおりである。①第二期工事の施工前に工種内容及び施工の範囲方法を協議する。②右工事は昭和四六年度にできる限り早期に着手し完了する。③工事施工期間(第一期工事を含む。)及び工事完了後に起きた被控訴人の責にかかる災害を生じた場合は、協議の上すみやかに善処する。④本件法敷の用地買収は行わない。⑤過去の被害等の補償は六五〇万円とする。そして、そのころ、被控訴人は、控訴人に対し、右補償金六五〇万円を支払った。
(七) 第二期工事は、右合意後に着工され、被控訴人が控訴人に送付した昭和四六年六月一一日付の右工事内容に関する説明書に基づいて施工され、昭和四七年五月ころ終了した。右工事によって、本件法敷に排水溝が新設され、その法下に擁壁が築かれるなどした。その間、控訴人は、被控訴人に対し、排水工事の善処を求めたり、工事中の補償を求めたりしたが、被控訴人は工事中の補償を拒絶した。
(八) 控訴人は、昭和四七年七月五日付書面で、被控訴人に対し、本件道路敷及び本件法敷に関する「借地願」の提出を求め、その後もこれを要求したが、被控訴人はこれを拒絶した。昭和四九年、控訴人は、被控訴人を相手方として、小倉簡易裁判所に対し、当時被控訴人が行っていた本件法敷の補強工事の中止と、本件道路敷及び本件法敷を適正価格で買い取ることを求める旨の調停を申し立てた。同年九月、控訴人は、被控訴人が右工事を完了したので、右調停申立てを取り下げた。
(九) 昭和五五年ころ、長雨によって本件法敷の崩落等が発生した。そこで、控訴人は、昭和五六年二月二三日付書面で、被控訴人に対し、法面補修工事の施工を求め、被控訴人は、昭和五七年ころ、本件法敷Bの擁壁の延長工事等を施工した。
二 以上の事実と前記第二・一の事実に基づいて、以下、検討する。
1 本件道路敷の上地について
控訴人の先代住職清水文雄は本件道路敷の市道建設を承諾したところ、右承諾に際しては、本件市道が永続性を有するものであることから、本件道路敷が永く本件市道の敷地として使用されることを承知していたものと推認される。その上、本件道路敷の占有権原については、控訴人が昭和四七年七月五日付書面で「借地願」の提出を求めるまでは、控訴人と被控訴人との間でこれが問題とされた形跡はない。
なお、被控訴人作成の昭和四六年三月三〇日付書面に添付された覚書案には、本件道路敷について無償上地する旨の条項があったが、右条項を巡っての特段の交渉はなかったことに照らすと、右条項は、本件道路敷が未分筆のままであったし(したがって、登記簿上の所有名義人も控訴人のままであった。甲二、七)、上地を証する書面も現存していなかったため(旧八幡市庁舎の受けた戦災によって焼失した可能性もあった。原審証人千々和廣)、本件道路敷の占有権原を巡る争いはなかったものの、あえて、本件道路敷の権利関係を明確にするために挿入されたものと考えられる。また、証拠(甲三七、一〇五、一〇六、一五九、当審証人古賀政吉、原審における控訴人代表者(第二回))によれば、昭和四九年六月ないし七月ころ、北九州市庁舎において、控訴人代表者と被控訴人の建設局長が面談した際、同建設局長が本件道路敷の無償上地を求めたことが認められるが、これも、前記の事情により、本件道路敷の権利関係を明確にする意図の下になされたものと考えるのが相当である。
以上の事実によると、被控訴人は本件道路敷を何らかの権原をもって占有してきたことが認められる。そして、右事実に、本件市道の敷地が国(内務省)への上地によって取得されてきたことや、本件道路敷の東西隣接地がいずれも上地されていること、さらには、控訴人の先代住職清水文雄が生前本件道路敷の上地を否定していたことを窺わせる書付類は全く残されていないこと(同人の日記帳(甲三六)の昭和一三年八月二一日欄には、本山に提出する財産目録の控えを記載した中に九七五番二が含まれ、また、昭和一七年に控訴人から福岡県に提出された寺院規則認可申請書(甲四五)には、基本財産として九七五番二が記載されているが、本件道路敷は九七五番二の一部にすぎず(分筆もされていなかった。)、これを除く九七五番二は控訴人の所有地であったから、右のような記載があるからといって、同人の上地否定の意思までを読み取ることはできない。)を併せ考えると、控訴人の先代住職清水文雄は、本件道路敷につき、国への上地を承諾したものと推認することができる。
なお、寺院の代表機関については、宗教団体法(昭和一四年法律第七七号)において初めて、住職とすることが定められたが、同法施工前においても、慣習法上、寺院の代表者は住職とされていた(大審院明治三五年四月一一日判決民録八輯二一頁参照)。
2 本件法敷の占有と占有権原について
本件法敷について、「道路法敷管理地の指定」がなされた後、控訴人は、本件法敷を境内地その他の用途に使用することはなかったのに対し、被控訴人は、本件法敷を本件市道の保全に必要な土地として管理し、本件法敷Bと本件法敷の法下にそれぞれ擁壁を築いたり、本件法敷に排水溝を設置してきたのであって、右の本件法敷に対する支配状況をみると、被控訴人は本件法敷を占有してきたものと認められる。そこで、占有権原についてみると、「道路法と敷管理地の指定」は、控訴人の先代住職清水文雄の求めに応じてなされたこと、「道路法敷管理地の指定」によって、旧八幡市(合併後は被控訴人)は指定管理地を維持管理するとともに、災害時に復旧の措置をとることを義務付けられ、一方、地主は勝手に地形を変えたり、所有権の移転を行わないことを義務付けられるところ、控訴人は、本件市道建設後一貫して、「道路法敷管理地の指定」があることを前提に、被控訴人に対して本件法敷の維持管理を求め、被控訴人はこれに応じて補修工事を施工してきたこと、以上の事実によると、控訴人の先代住職清水文雄は、被控訴人との間で、本件法敷について、「道路法敷管理地の指定」に即応する合意をしたものと推認することができる。そして、右の合意の内容と占有の態様にかんがみると、右合意によって、本件市道の保全を使用目的とする使用貸借が約されたものと解するのが相当である。
3 檀徒総代の同意と教部省の許可について
(一) 宗教団体法の施行前、寺院財産の処分については、太政官布告や各省の達・令等が法令の性質を有するものとしてこれを規制していた。そして、寺院財産の処分について規定する、明治六年太政官布告第二四九号、明治九年教部省達第三号、明治一〇年太政官布告第四三号、明治一二年内務省達乙第三九号(以下、これらを総称して「処分制限規定」という。)は、境内地、境外地を問わず、寺院の所有する不動産の処分には、檀徒総代の同意及び監督官庁の認可(その法的性質は、一般的な禁止を特定の場合に解除する「許可」ではなく、第三者の行為を補充してその法律上の効力を完成させる「認可」にあたるものと解する。)を必要とし、これらを得ない処分行為を無効としたものと解される(大審院明治三八年九月二七日判決民録一一輯一二六二頁、大審院明治三九年一月二二日判決民録一二輯三一頁、大審院大正元年一〇月三〇日判決民録一八輯九三一頁、大審院大正二年六月三日判決民録一九輯三八二頁参照)。これは、寺院の財産的基礎を確保するという公益的見地から、住職の恣意的な処分行為を規制することを目的としたものであった。そして、檀徒総代の同意は住職に対する意思表示であって、これと監督官庁の認可がなされることにより、私法行為たる処分行為は有効となる。また、認可を与える監督官庁は、当初、教部省であったが、その後、内務大臣とされ、明治一八年内務省達甲一六号及び明治一九年内務省令一号によって、地方長官に委任された。
これとは別に、境内地の使用について、明治三六年内務省令第一二号(以下「使用禁止規定」という。)は、「(一)一時限リノ使用、(二)参詣人休息所等其使用一箇年以内ニ止ルモノ、(三)公益ノ為メニスル使用」を除いては境内地の使用を禁じるとともに、右(二)及び(三)の使用には地方長官の許可を必要とし、さらに、地方長官が許可を与える場合に右(三)の使用期間が三か月を超えるときには内務大臣の認可を必要とした。
(二) 本件道路敷の上地と本件法敷の使用貸借に右の各規定が適用されるか否かを検討する。処分制限規定については、右の上地が処分行為にあたることは明らかであり、また、右の使用貸借も永続的に所有権の行使が制限される点からすると処分行為にあたると考えられるから、いずれにも右規定の適用があると解される。したがって、檀徒総代の同意と地方長官の認可が必要である。使用禁止規定については、本件法敷は控訴人の境内地であったと認められるから、これが適用される。そして、本件法敷は市道の保全という公益目的のために使用され、しかも、その使用期間は三か月を超えることが明らかであるから、地方長官の許可と内務大臣の認可が必要である。
そこで、本件道路敷の上地につき檀徒総代の同意と地方長官の認可が、本件法敷の使用貸借につき檀徒総代の同意と地方長官の認可、及び地方長官の許可と内務大臣の認可があったと認められるか否かについて、検討する。まず、本件市道は昭和八年六月八日ころ供用の開始がなされ、本件道路敷は本件市道の一部に、また、本件法敷は本件市道の法面にそれぞれ形状が変更されていたから、控訴人の境内地が本件市道及びその法面として使用されていることは、控訴人の檀信徒にも広く周知されていたはずである。ところが、控訴人の先代住職清水文雄の生前はもちろん、その後、昭和四〇年代までは、右各土地の使用権原が明確に問題とされることはなく、その間、控訴人の檀信徒からも、また、国や福岡県からも、処分制限規定や使用禁止規定に定める要件の存否について疑問が提起された形跡はない。これに加えて、本件市道の竣工式には内務大臣や福岡県知事(地方長官)も出席して、祝意を表明しているし(乙三。内務大臣や福岡県知事は、その職務上、本件市道が寺院の境内地を貫通することを熟知していたものと考えられる。)、また、本件道路敷の上地と本件法敷の使用貸借はいずれも市道建設という公益事業に境内地を提供するものであって、住職が私的利益のために寺院財産を処分するというものではなかったから、檀信徒に対して右処分行為を隠蔽するなどということはとうてい考えられない。以上の事実を総合して考えると、控訴人の先代住職清水文雄は、檀徒総代の同意を得た上で、本件道路敷の上地と本件法敷の使用貸借を承諾し、これについては、地方長官たる福岡県知事の認可及び許可、並びに内務大臣の認可がそれぞれなされていたものと推認することができる。
第四 結論
以上によると、被控訴人は、本件道路敷についてその所有権を有する国から無償で貸付けを受け、また、本件法敷については使用借権を有することになる。そうすると、被控訴人の本件道路敷及び本件法敷に対する占有は法律上の原因を欠いたもとはいえないから、控訴人の本訴請求は失当として棄却すべきである。よって、本件控訴は、理由がない。
(裁判長裁判官下方元子 裁判官池谷泉 裁判官川久保政德)
別紙図面①〜⑤<省略>